※パラレル世界


信号


 もし、とか、たとえば、とか。そんな仮定の話をするのが好きだった。
 子供の頃は皆、そうやって架空の世界に目を向けては、あり得もしない未来に心を躍らせていた。何やら得体の知れないものが地球をおそって、ある日自分は自身の中に潜んでいた力を覚醒させ、ヒーローとなって捕らわれた姫君を助けるのだ。困難なことがあっても頼もしい仲間と一緒に乗り越え、未来永劫英雄として称えられる。何度死んでもボタン一つで生還し、いくらでもやり直せる人生。
 人生がやり直せたら、自分はどうするのだろうか。タイムマシンに乗って、好きなところから修正できたら。あの頃の失敗があったから今の自分がいるだとか、わかった風な口をきく奴はどうしても好きになれない。まだ死んだこともないくせに、と、口の中で飴玉をもごもごと動かしながら足早に横断歩道を渡った。
 横断歩道を渡るとき、渡るときはそう、いつも一つのことを思い出す。夕方の4時あたり、季節は夏と秋の境目。珍しく通りが閑散としており、信号が赤から青に変わるのを待っていたのは自分とあと一人、口を薄く開けた老婆だけであった。イヤホンを片方だけ外して、信号をじっと見つめていた。そこの信号は長いのだ。その日も惜しいところで捕まって、胸の中に小さな不快感が積まれたのを覚えている。
 信号がようやく青に変わって、聞きなれたメロディが流れ出す。鞄を持ち直して歩みを進める。横断歩道を半ばあたりまで渡ったところで後方から声が聞こえたのだ。「そこの男の人、まだ赤ですよ。」と。
 信号は確かに青だったし、車が進んでくることもなかった。一瞬の混乱はすぐに消えて、年寄りの言ったことだ、ボケでも始まっていたのだろうとすぐに忘れ去った。それでもまだ思いだす。こうやって横断歩道を渡るときに、あのとき見えていた信号は本当に青だったのだろうか、と。

 形だけの学生服、形だけの教科書。当たり障りのないキャラクターを演じて、それなりに上手くやっている。DUCK本部から正式に命令が下った上司の山田とは違い、頼み込んで潜入調査に参加させてもらった。学校生活をもう一度、なんて、そんな馬鹿みたいなことが理由だったわけではなかった。ただ少し、やり直したかったのだ。少しだけ。
 高校生活というのは、観察対象としては実にくだらないものであった。決まりきった授業に、パターン化された反応が繰り返される。休み時間になればそれぞれがそれぞれのグループへ散っていき、これまたよくある話をひたすらに喋る。まるでそれが彼らの義務であるかのように喋る、喋る、そしてまた喋る。潜入調査のためには、ターゲットの動向を掴む必要がある。そのためには適当な人間をみつくろって、そこから徐々に対象に接近する必要があった。しかし村田にとってこの世界はあまりにも刺激が少なく、凡庸で退屈であった。何人かと話し、何人かと友達になった。でもどれも区別がつかない風船だった。村田の世界は今までもこれからもずっと、宇宙人か、そうでないものの二つであったから、自分が頼み込んだ任務であったとは言え、もう既に放り投げたい気分であった。
 今日、今日一日耐えたらもうやめよう。今更何をやり直せるわけでもない。やり直すにはもう十分この世のことを知りすぎた。使いもしない教科書を鞄にいれようとしてやめ、机の中に戻した。明日にはもうさよならだ、ならば何も悪戯に鞄を重くしなくたって良いだろう。そうだ、明日からはあのカレー屋に引きこもって、たまった書類を処理しよう。それからお腹いっぱいにカレーを食べて、上司の背中を想い浮かべながら浅い眠りにつこう。今日は何日だろうか、あぁ、12月19日か。水曜日。いや違う、あれは日直がカレンダーをめくり忘れているのだ。今日は木曜日だ。
 何を思って日めくりにしたのか。あんなもの面倒くさくてしかたがない。わざわざ黒板の横まで行ってめくって、さらにそのめくった紙を捨てるだなんて面倒くさくて仕方がない。すべてをカレンダーのせいにして昨日の日直の名前を忘れようとしているといつの間にか一人の少年が机の前に立っていた。
「村田ってさ、もし世界が終わったらどうすんの?」
「…は?」
「もしこの世界が終わって新しい世界ができたらどうすんの?」
 立っていたのは藤田というクラスメイトであった。話したことは数回あったかなかったか。眼鏡をかけて、いつもどこか不機嫌そうな表情をした少年だった。そんな彼に突然世界の崩壊について話される理由は見つからなかった。21日、あぁなるほど明日は世界滅亡の日か。誰かが話していたような気もする、きゃーきゃーと耳触りな音をたてて、もうすぐ世界が終わるというのに未来の話をしていた。
「何?藤田ってば信じてるの?」
「どうすんの?」
 まるでこちらの話を聞く様子がないクラスメイトに心の中で舌うちをした。なんだよ、お前。なんで俺に話しかけてくるの、と不満が口から出そうになる。答えを聞くまでは帰してもらえそうにない雰囲気に、どうせ明日にはさよならなんだ、今ここで悪印象を抱かれたところで失うものはなにもない、と我慢していた苛立ちを放出させるかのように机を蹴る。振動に驚いた目が見えて、ほんの少し愉快な気分になった。
「さぁ、死ぬんじゃないの。」
「それから?それからどうするの?」
「はぁ…生き返れたら良いねー。」
「生まれ変わったら俺と仲良くしてくれるか?」
 ああ苛々する。まるで幼稚な押し問答に目の前の男をどうにかして絶望させたくなる。こういう輩は厄介だ。仲良くもないのに慣れ慣れしく、べたべたとくっついてきては人の領域にずかずかと土足で突っ込んでくる。こちらが丁寧に突き返しても意味はない。彼らは彼らのルールで動いており、それに外部は一切干渉できないのだ。
 頭の中で少年を傷つける方法を何通りもシュミレートする。いっそ物理的に傷つけてしまおうか。目を瞑って思いつくかぎりの残虐な罰を考えたら興奮して冷や汗が出てきたのを感じた。もうやだな、面倒くさいな。このまま机を彼の方に押しやって強い力でぶつけたら彼は怪我をするだろうか。信じられないといった顔をしてもう二度と口をきかないと言うのだろうか。
 少年の問いには答えずに机に手をかける。向こうの方でカレンダーが破られたのを見た。今日は20日か。木曜日。祭日ではないのにその数字は赤くなっている。視界の端で藤田が笑うのを見る。車の悲鳴が聞こえるが、俺はもう歩きだしていた。きっと老婆の戯言だ。俺は片方はずしていたイヤホンをもう一度耳に押し込む。
「馬鹿村田!!!まだ赤だぞ信号!!!」
「…え?」
 
 あれ藤田ちゃん、今日って20日じゃなかったっけ。