※石井→蟹江のはじまりの話 ※石井家ねつ造というか妄想というかフォロワーさんの尾崎家離婚説がしっくりきすぎた結果 その人が死んだ日 帰りの時間を聞かれることが多くなった。 そう感じたときに、何か行動に出ていれば、あるいはこの未来は変わったのだろうか。「今日は何時に帰ってくるの?」と、以前よりもだいぶ固くなった言い方に、なんとなく毎日の帰宅時間は遅くなっていった。だんだんと家で過ごす一日が短くなっていく。母はどこか安心した顔をしていた。 尾崎哲也の家族が離散したのはそれから一カ月後であった。彼は彼の母と小さなアパートに引っ越し、そして彼の名字は尾崎、から石井、に変わった。母の旧姓はなんとなく自分にあっているような気がした。それでも表札にその文字が書かれることはなかった。 「色々大変だと思うけど、尾崎…じゃないな、石井も頑張るんだぞ。ちゃんとお母さんを支えてやりなさい。」 色々大変だよ。でもその色々って何だろう、と石井は思う。学校から帰って家の手伝いをしくちゃいけないこと?母さんの帰りが遅くてここ数日会話もろくにしていないこと?それとも、僕が虐められていること。 でもきっとそんな具体的なことじゃないんだろう。世の中にはごまかさなくてはいけないことがたくさんあって、僕だってそれに救われているんだろう。 先生は付け加えて言った。周りの人たちがついてるから、一人じゃないんだぞ。もう一人にして下さい、と言いたかった。 どうせ仲の良い人なんていなかったから、わざわざ名字が変わったことを伝える必要はなかった。クラスメイトが誰も自分なんかに興味を持っていないことは知っていた。それでも担任が出欠と取るときに一瞬戸惑ったのを見て、彼らは気まずそうな表情をするのだ。「尾崎くん可哀想。」「石井くん大変ね。」「石井くん頑張って。」「尾崎くんを支えてあげよう。」尾崎くん。石井くん。石井くん。尾崎くん。石井くん。…………。 机に突っ伏して、何も考えないようにただ冷たい机に頬をくっつけた。くすくすと笑い声が聞こえた気がした。 石井くん、石井哲也くん。出席簿の名簿も、ロッカーの名札も、二日後には綺麗に変わっていた。プリントアウトされた明朝体の文字は、まるで最初から尾崎などという人間はいなかったかのように、整然と、澄まし顔でそこに並んでいた。それでもたまに呼び間違えは起こった。口を縦にすぼめて僕の方を向いた人たちは、いつも少しいらついたように石井、と呼び直した。 尾崎、という名前はずっと石井の中に宙ぶらりんにつり下がっていた。それは朝顔を洗うときに、出かけるために靴を履くときに、おかずの入っていない弁当箱のふたを開けるときに、ふいに石井の内部でわきたった。尾崎哲也も、石井哲也も、どちらも同じであるはずなのに、石井哲也になった瞬間に、今までの尾崎哲也が押しのけられて、まるで知らない人間に身体を乗っ取られたような気分になっていた。それは周囲の人々が自分の名前を呼ぶときに一層強く感じられた。お前はもう尾崎じゃないんだ、なのに何故尾崎の姿をしているのだ。そう責められているような気がした。 「なぁ。おい。おい聞いてんのかよ。」 はっとして頭を上げると、上げた瞬間に机を蹴られて、みぞおちに縁が食い込んだ。腹部を押さえて前を見ると、不機嫌そうに腕を組んで自分を見下すクラスメイトが目に入り、思わず息が詰まった。 「よー石井くん?お前、名字変わったからって中身も変われた気になってんじゃねーぞ。」 首をかしげて馬鹿にするように笑う男はいつも先頭に立って自分を虐める男だった。しかし今はそれどころではない。そんなことも吹き飛ぶくらいに驚き、そして驚いた自分にもまた驚いていた。 黙って立ちあがり、目を見開いて自分の方を見る石井に、男が困惑して机についていた腕を戻す。そのまま数秒視線が交差した。 「何お前、キモいんだけ、」 「か、蟹江くん…蟹江くん!」 「何、なんなのお前、は?」 「僕!僕、石井って、僕。」 「はぁ?石井だろお前なんなの意味わかんねえ。キモいから腕離せキモ!」 「だって、蟹江くんが僕尾崎じゃなくて、石井って、石井って。蟹江くんが。蟹江くんが初めて僕を、石井って。その…。」 「尾崎なのお前、今は石井なんだろ?親のリコンで石井哲也になったんだろ?」 「そう…だけど…。」 「そうだけどなんなんだよ。石井って呼ぶくらいでわめいてんじゃねーよ。別に尾崎も石井も似たようなもんだろーが。」 「同じじゃないよ…。」 「同じだろーが。どっちにしたって駄目駄目な哲也の部分は残ってんじゃねーか。」 蟹江が少しだけ笑った。少しだけ笑ってすたすたと去っていって、彼はそのままクラスの空気に自然に溶け込んだ。 尾崎でも石井でも変わらない。きっと一生変われない。石井になっても僕は僕のまま。ずっと虐められっ子で、そのまま。 クラスに上手く馴染めず、なのに変わる出席番号にだけは素早く適応した。僕自身が一番ついていけなかったくせに、他人が呼び名を間違えると敏感に反応した。 尾崎から石井になって、尾崎哲也を殺したのは自分だった。石井哲也になれば、もしかしたら何かが変わると思っていた。それでも母さんは相変わらず帰りが遅く、クラスの空気は冷たかった。 あぁでもそれでも良いのかも知れない。尾崎哲也を受け継いで、石井哲也は生きていく。 何かを頑張るってのは、こういうことなのかも知れない。 「中身も変われた気になってんじゃねーよ。」 いつもならげらげらとたくさんの笑いが混ざるのに、今日の彼はなんにもうるさくなかった。 少し怒ったような口調で放たれた言葉を反芻して、何故だかひどく安心した。 |