※学パロ


塩酸と林檎


 彼は基本的に、ボクのなすことすべてにケチをつける。いや、ボクが何もしなくても、ボクという形そのものにケチをつける。
 彼が呪いの言葉をボクにふりかけるとき、彼はその口をひどく楽しそうにばっくりと開けて、尖った歯を見せる。彼の舌が、赤い彼の舌が上下にゆれて、今日もまた、「だからアンタは馬鹿なんですよ。」と嘲笑う。
 この男の中で一体どのような因果律が展開されているのかはわからないが、彼が至極愉快そうに目を細めるので、ボクは踏み入れた足をそっと戻す。
 ボクはこの男に好かれていると思ったことは一度もない。だからどうというわけでもない。ただの感想だ。けれども1年、2年、3年、そして5ヶ月を共に喰い潰してきた中でそれなりに思うことはあった。
 きっとこの男は恋などしない。だってこの目はそんなもの、ひとかけらたりとも欲してないのだ。
 こういうものを表現するのは難しい。そう、ボクは思う。ドライアイスを触っているみたいだ。それは冷たいものであり、事実冷たいとも思っているのに、だんだんとその冷たさ自体がわからなくなって、皮膚は固くなり、感覚は失せ、腫れた指先はじん、と熱くなる。
 恋などしないだろう。恋などしたくないだろう。火にくべた刃先は熱く、この身を切ると同時に焼き焦がすのだろう。あぁ、本当に、この男は。
 ボクを大切にしようだなんて微塵も思っちゃいないのだ。圧倒的な力でねじ伏せて、腹を蹴り飛ばし、這いつくばったボクの頭を踏んづけながら言うのだ。
「どっちでも、良いですよ。」
 付き合ってやっても良いですよ。
 嘘つき、とボクは言うだろう。満身創痍の身体で、それでも笑いながら何とか気道に酸素を送り込んで、「嘘つき。」
 どちらでも良いはずないのだ。
 二つの選択肢を示しながら、一つ以外は死しかない。自分は恋などしないと高みの見物をしておいて、足を滑らせて落ちてくるのを今か今かと待ったいる。仕方がないですね、そんなに言うなら良いですよ、と、すべての責任を、すべての環境の変化を押し付けてくるのだ。
 だからボクは言わない。決して言わない。
 例えこの身が滅びても、矜持だけは往生際が悪く保ってやるのだ。そうしてあの高慢で非道な男の鼻をへし折ってやろう。
 だがしかしどうだろう、脅されたら、殴られたら。ボクはひるまず立っていられるだろうか。暴力を振るわれたら。
 彼はすでに目の前まで迫ってきていた。かたまるボクを見て眉をひそめて、そして先程のようにゆっくりと口を開く。あぁいよいよだ。いよいよ死刑執行の時間だ。さよなら世界。ボクはこのちっぽけだけど大切で、そしてやっぱりくだらないプライドのために今、尊い命を散らします。
「俺と、付き合ってくださいませんか。」
 神に仏に節操なく祈るボクの頭の上に、今までで一番丁寧な“お伺い”が振ってきて、ボクは案の定唇一つで落城した。


ぐらぐらばたん。ボクの心臓はそのようにして、死ぬ。