薔薇と洪水 落ち着かないから、と言って黒に変えた目は、今はもう赤い色になっている。 「どんな風に見えているんですか。」 そう控え目に聞いた彼が、おそらく唯一知っていたボクの左目の中身。彼は僕の魂の揺れを感じとって来てくれて、涙が流れることがなくなった目を見て何かを察してくれた。彼はボクを包み込むように抱きしめて、口には出さないけれどもきっと、大丈夫、俺が助けてあげます、と言ってくれた。 ボクは左目で絶望を見る。裏切られた人、戦火に逃げ惑う人、人を殺めた者、死にゆく人。世界には様々な種類の絶望がある。毎日毎日色々な悲鳴が混ぜ合わされて、劇場では次々と人が倒れてゆく。憂鬱は人を殺すんだって。喉をかきむしって、首をくくって、愛しい人の身体に火を放ち、腹を掻っ切って、それでも死にきれない人たちは、最後にボクの方を見る。 「 」 ボクは静かに目を閉じて、どうして涙の一つも出てくれないのだと、眼球に指を突き刺すのだ。 シオンが家庭教師として、月に一度ボクの元を訪れるようになってからも左目の世界は変わらなかった。 音は聞こえない、手も差し伸べられない、ただ淡々と映像だけが流れていく。 「…目、戻したんですか。」 「あぁ、うん。」 「その目、何か見えてるんでしょう。」 きりだすのは散々躊躇したくせに。腹をくくったら誰の都合もかまわずに助けようとする。シオンはそういう奴だ。 完全にボクの目の秘密を知っている、確信を持った口ぶりに、余計なことをしてくれたものだと、この場にいない執事長を恨んだ。 「別に、普通だよ。」 「嘘だ。」 変なの。変なの、とボクは思う。嘘をつくときに手の甲をなでる癖は直したはずなのに。レッドフォックスともてはやされた過去には、その功績の裏で直さなくてはならないことが山のようにあった。嘘と仲良くなることもそのうちの一つ。上手くなったと思ったんだけどなぁ、と昔に思いを馳せるボクの頬をつねって、シオンが現実に戻した。 「何が、見えているんですか。」 答えるまで逃がさない、とばかりに掴まれた肩が痛い。観念して目を見れば、ボクの色よりずっと綺麗な赤い色があった。 「絶望だよ。」 「絶望?」 「うん、そう。絶望。シオンたちが掴んだ希望の裏側にあるもの。もしかしたら、お前たちの希望のせいで生まれたかも知れないもの。悲しみ。叫び声。狂気。その全部が、絶望。」 あぁ、違うよ。別にシオンたちがあのまま絶望の中にいれば良かったっていうことじゃない。シオンもクレアさんも、絶対に二人は幸せになるべきだったのだから。でも、それでも絶望は確かに存在するんだ。人が生きている限り、永遠に、その傍らに、ひっそりと。 「そんなの、もう見なければ良い。貴方ならもう一度瞳の色を戻すくらいわけないでしょう。」 赤い目がすべての元凶なら、と目を伏せる。ボクはその姿になんとも言えない愛おしさと深い悲しみを覚えて、ゆっくりと息を吐く。 「別にシオンのせいじゃない。でももう駄目なんだ、戻せないんだ。」 「どうして。」 「もう見てしまったから。人の、助けるべきであった人たちの悲しみを見てしまったから。」 シオンの赤い目は本当に綺麗だ。この濁った色とは比べ物にならないくらい。 「それでも、それでも貴方にはどうすることもできないじゃないです、か。」 「だからって見なかったフリをしろって言うのかよ。」 一度知ってしまったことからは逃げられなくて、知らなかったあの頃には戻れない。いくら目をつぶって暗闇に逃れたとしても、彼らがボクを責める声はどこまでもボクを追いかけてくる。そもそも逃げることだっておかしいのだ。だって彼らは、きっとボクのせいで狂ってしまったのであって、ボクが助けられなかったのがいけないのだから。 がたんと大きな音を立てて椅子が後ろに倒れた。シオンは驚いた顔で立ちあがったボクを見上げている。牢屋の床は冷たくて、足の裏からかたまっていくようだ。床に触れている部分から段々と石になっていって、ボクは心臓の鼓動だけ残してすべて灰色の塊になってしまうのだろうか。息も、言葉も、想いも、すべてが壊れた機械のようになっていく。 「どうして一緒に来てくれなかったんですか。」 「…行けないよ。」 「それは貴方が勇者だからですか?」 そんなことなら勇者になんて、と言いかけて、シオンは罰が悪そうに口をつぐんだ。そうじゃないのに。またボクのせいでシオンを悲しませてしまった。そうじゃなくて、 「だって、」 シオンはロスじゃないじゃないか。 赤い目がすっと細められて、口元が吊り上がった。大きな手が無遠慮にボクに触れる。ボクの知っているシオンはこんなに感情を剥きだしで触れることはなかった。歪められた口から赤い舌がのぞく。階段を見なれた執事服が降りてくる。「大枚はたいちゃいました。」と、いつものように眠そうな、けれどもどこか楽しそうな声が降ってくる。混乱するボクをよそに目の前のシオンが崩れていって、褐色の肌がのぞく。 「ほんなら、」 「変えてしまえばええやん。」 擬態が完全に解けるタイミングを見計らって、男の唇が押し付けられた。 助けて、ロス。 |