※レッドフォックス


命題


 生きるってなんだろう、と、ふと考えたことがある。
 隣を歩く少女に聞けば何らかの答えが返ってくるのだろうか。彼女は見た目とは裏腹に豪快な考えを持つ女の子だから、ボクのこんな些細な質問には笑ってこう答えるのかも知れない。「さぁ、まだまだ生き始めたばっかりだし、わかんないよ!」と。
 生きるって、なんだろう。
 地球は広すぎて、手をいくら伸ばしても覆えない。果ては見えなくて、せいぜい夢想することしかできなかった。やらなくてはいけないことが多すぎて、やってはいけないこととの区別もつかなくなってしまった。きっと本当はやらなくていいことも、必要があってやるようになった。心底やりたくなくて、涙が出そうになるときは、心に嘘をついて塩からい水を蒸発させた。

「ルキ、ボクは今日も生きてるよ。」
「うん。」
 夜が怖くなったのは二人きりになってからだ。しんと佇む森は、夜中ずっとボクたちを見張っていた。ボクたちが森の夜に相応しい者たちかどうか、野宿をするたびに判定され、ボクはルキを守る使命と怖くて今にも毛布をかぶって泣いてしまいたい感情との間でぎちぎちになっていた。
 そういう緊張の中で疲れて眠ってしまうこともたくさんあった。ルキはとっくに眠っているから、深夜の何時間か、見張りも置かずに少年と少女は無防備に地面に横たわっていた。大体寒さで日が登りきる前に目覚めて、数時間前の状況に真っ青になるのだ。もしあのとき奇襲を受けていたら。そしたらボクたちは死んでいた。

 そうやって命を身近に感じた途端に、この前までは躊躇いなく殺していた動物に恐れを抱くようになった。動物が殺せなくなった。夕飯のスープにはいつも木の実やなんだかわからない草が浮いていた。ごめんなさいごめんなさいと、壊れたように繰り返すボクにルキは何も言わなかった。
 それでもボクはルキを守らなくちゃいけなかったし、旅の途中で飢えさせることなんてもってのほかだった。三週間ほど質素な暮らしが続いた時に、ふとルキが首を傾げながらこぼしたのだ。「アルバさん、わたし、お腹が減っちゃったよ。」

 気が付くと色んなものが死んでいた。肉と肉が折り重なって、血の匂いが鼻孔をついた。まだ少し動いているのもあった。体から流れた血液は、どろりと動いてボクの喉に絡みつく。乾いた兎の眼がボクのことを呪った。それでボクは満足して言ったのだ。「ルキ、好きな分だけ取ればいい。あとは捨てておいて構わないから。」
 パチンと音が破裂して、ボクの頬は熱を持った。やがてじんじんと痺れ出して、空気に触れて冷たくなった。目の前には涙を懸命に堪えた少女がいて、唇を震えさせていた。
「だって、だってボクたちは生きなくちゃいけないんだ。生きなくちゃいけないんだよ!!ご飯を食べないとお腹が減るんだ、夜中に襲われるかもしれないんだ、そしたら死んじゃうんだよ!殺すしかないだろ!ボクが殺すしかないだろ!!」
「こんなに兎が死んじゃったのに。」
「でもボクたちは生きている。」
 ルキは大声で泣き出した。ボクはあやすこともなく毛布をかぶって眠った。


 その日ボクは夢を見た。ロスがいなくなる前の、三人で旅をしていた時の夢だ。ルキはもう寝てしまっていて、ボクはロスと二人で話をしていた。
「戦士、寒い。毛布そんなに取らないでよ。」
「俺のがデカいんだから仕方ないでしょう。」
「えー。じゃあもう一枚買おうよ。ルキちゃんも増えたし。」
「そんなお金どこにあると思うんですか。」
「はーい。」
 それでもボクは寒くて、戦士の足を押し開いて、彼に抱え込まれる形で座り、毛布を引き寄せた。
「なんですか勇者さん男の股広げて。溜まってるんですか?気持ち悪いです他あたってくださーい。」
「寒いんだよ!」
「はいはい。」
 夜の戦士は静かだ。ボクのことをからかって、罵倒するのは相変わらずだけれども、昼間のような勢いはない。どっちが本当の戦士なんだろうと、ボクはたまに思うけれど、それを聞くことでどちらかの戦士がいなくなってしまったら寂しいので、いつも聞くことはない。
 昼間の旅ももちろんとても楽しいけれど、夜の時間も好きだ。ボクはこうやって静かに戦士と話すことができることが少し誇らしい。
 戦士が熾した火はもう消えてしまっていて、かけられていた小さな鍋も冷たくなっている。空になった鍋底を見つめていると、腹の虫が諦め悪く鳴いて、戦士が呆れた顔をした。
「あんだけ食べといてまだ腹減ってるんですか?」
「しょ、しょうがないだろ成長期なんだよ!!」
「成長して少しでも使えるようになると良いんですけどねー。」
「だって…足りないんだもん…。」
「がーまーん。」
「いやだ!お腹減った!なぁもっと肉増やせないのか?野菜だけじゃふくれないよ…。」
 駄々をこねるボクの頭に顎を乗せて、戦士がため息をつく。ボクは呆れられたのかと思って身を固くするけれど、それでも今日は譲れない、譲れないんだ!と口をとがらせる。別にルキのことが嫌になったわけじゃない、旅についてきてほしくないいとか、そういうことを思ったわけではない。でも人数が増えればそれだけ我慢しなくてはならないことが増えるのだ。ボクは子供だったから増えていく小さな我慢に苛々して、それでいつもこうやって二人だけのときに戦士に甘える。子供特有の卑怯なわざを使う。
「…俺たちはいつも命に感謝しなくちゃならないんです。」
 唐突に戦士が話し始めて、ボクは手遊びをやめる。悪い癖だ。いつも何か、居心地の悪さを感じるとこうやって手をいじってしまう。
「えっと、生きてて良かったーって?」
「貴方が生きててもしょうがないじゃないですか。」
「ひどいっ!」
「そうじゃなくて、俺たちに生をくれた命たちにです。」
「でももうあいつらは死んじゃってるじゃないか。」
 人差し指でぞんざいに鍋の方を指さすと、戦士は首を振りながらボクの手をおろした。
「勇者さん。呼吸をしているから生きている。鼓動が止まったら死ぬ。そうじゃないんですよ。生きるっていうのは、誰かの命を譲り受け、自らの中でそれを育み、また次の誰かに伝えていく行為なんです。一つの命を分け合った友を守ること、それが生きるってことです。」
 戦士の手がゆっくりとボクの髪をとかす。諭すような柔らかい口調に、ボクは安心して戦士にもたれかかる。
 戦士が長く喋ることは稀だ。いつも口を開きかけてはすぐにつぐみ、その後に続く言葉を飲み込んでしまう。だからボクはこうやって戦士が長く何かを伝えようとしてくれているときは、いつもより何倍も気をつけて耳を傾けているつもりだし、その言葉を理解したいとも思っている。しかしながらこのときのボクはまだ幼くて、夜も更けたこんな時間に難しい話を聞いていられる程大人ではなかった。
「ふーん。よくわかんないや。」
 だからボクは大きく欠伸をして、折角の戦士の言葉を夜の闇に捨ててしまった。そうすると戦士は愛おしさと悲しさがちょうど1対1で混ぜ合わされたような顔で笑って、ボクの頭をポンと軽く叩いた。
「ほんっと、馬鹿ですねぇ。でも今はそれでいいんじゃないですか、いつかわかりますから。」
 そうかなぁ、そうだといいなぁ、と溶けるように残して、ボクはあたたかい腕の中で眠りに落ちた。


 一年は短いようでいて長い。長いようでいて、短い。儚い。脆い。強い。
 あれからボクは、たくさんの命と出会って、あるときはそれを奪って、あるときはそれを救った。
「アルバさん、強くなったね。」
「なってないよ。」
「そうかな。」
「そうだよ。」
「でも、もう血を流している兎はいないよ。」
「まぁね。」
 もう兎は死んでいない。乾いた目はいつまでも遠くからボクを見つめているけれど、ボクは躊躇わなくなった。その命を奪うこと、その命を奪って、継承していくことを、恐れなくなった。ルキはお腹を減らして泣くことはない。寝付けない夜は度々だけど、誰かの手を握っても良いのだと学んだ。
 あのときロスが言おうとしていたことが、今ならなんとなくわかるような気がしている。人は一人では生きていけない。一人で生きていると思っていても、その命は代々誰かから受け継いだもので、数多の生命に支えられているのだ。ボクの隣でも、また一つ命が輝いている。ボクはその光を受けて、そしてまた犠牲となった、あるいは掬いとった魂に背中を押されて立っている。一日一日を生きるたびに心臓が燃え上がり、ボクの命の炎もまた見知らぬ誰かの生を繋いでいる。
「ありがとう、アルバさん。」
「ごめんね。」
「ううん、ありがとう。生き方を覚えてくれて、ありがとう。」
 手を伸ばせば小さな手がそれを掴んだ。地球は広すぎて覆えない。ボクらが覆えるのはせいぜい弱い心三つ分くらいである。


 なぁロス。お前は今、ちゃんと生きているよな。