立てないアリス


 おはよう太陽、昨日はさよならを言えなくてごめんね、おつきさま。

 遮光カーテンでも遮れない夏の光にゆるりと起こされる。しばらく頭をふらふらさせて、目をこすり、うーん、と伸びかけて途中でやめて、また枕に沈む。ぼすん。
 大丈夫だって今日は日曜日だもん。ばあちゃんも朝早くから出掛けてしまった。だからまだ寝てられるんだよ。
 枕の端を両手の指でしっかり掴んで、離すまいとする。ぐりぐりと顔を押し付けている自分に、呆れたような溜息を感じる。うぅ、だか、おぉ、だか判別のつかない声をあげながら下肢に手を伸ばした。


 先月夏樹に言われた。おしっこー!と、高校生にもなって元気よく尿意を宣言し、トイレへと駈け出していったハルは、教室に二人を残した。西日が暑い時間であった。アキラは3時間目の途中で、携帯片手に慌てた様子で飛び出していった。授業中に電話を鳴らしたことで憤慨する教師にはっきりと、事務的に謝罪をする姿が二十五歳であった。
 夏樹が自分の席から俺の席に移動してきて、そこで二人で黙々と、開きもしない教科書を機械的に鞄に詰め込む作業をした。
 そのときに言われた。なんでもないような顔で。

「ユキ、今日から毎日、俺のこと考えて。」

 熱のこもらない声で言われた言葉に、一瞬で反応できなくて、俺は思わず「な、何回くらい?」と馬鹿な質問をした。素っ頓狂な質問に夏樹がきょとんとした顔をして、やっぱり、ユキはユキだな、なんてひどく主観的なことを呟きながら「まずは、二回、かな。」と、真剣な顔で答えた。

「二回。」

「そう、二回。朝と、それから夜とで、二回。」

「二回で、足りるかな。」

 数えていたわけじゃないけれど、こうやって命令される前の俺が彼のことを考える回数は、二回なんてとっくに超えていた。
 朝ごはんのメニューは思い出せないけれど、夏樹の言ってくれたことは全部思い出せる。
 いざ制限されると、頭の中に夏樹という存在が膨れ上がってきて、口からぽろりぽろりと言葉があふれてきそうだ。
 俺はとっさに両手で口を押さえて、首を振った。

「今はまだ、二回だけ。」

 あのとき言われた言葉がリフレインする。夏樹の言われた通りに、二回だけ、深く、深く考える。あ、ねえ、夏樹、夏樹。もうやだよ、夏樹。
 きっと彼がやりたかったのはこういうことなのだと思う。落下スピードが速いものより、遅いものの方が、着地の衝撃が静かだから、俺は着地していることに気がつかない。

「ゆっくり、時間かけて、落ちてこい。な?」

 まだ先に落ちなくちゃいけないの?底は暗くて何も見えない。夏樹はこのずっと下で俺が落ちてくるのを笑って待っているのだろうか。それとも、落とすだけ落として自分は穴の手前でぼぅっと、眺めているのだろうか。

 今日はもう、夏樹のことを一回、考えてしまった。あと残りは一回だから、夜まできっと俺が吸い込める空気は通常の三分の一にも満たないだろう。
 できるだけ長く、この時間が終わらないように、目も耳も、鼻もつぶって、指先に神経を行き届かせる。口から浅く息が洩れて、早く早くという気持ちと、まだもう少し待ってくれという気持ちが交差する。まだだ、まだ足りない。夏樹が足りない。
 目をあけて、夏樹の姿をきょろきょろと探した。右を見ても、左を見ても変わらない自分の部屋に、驚くことに舌うちが出て、頭の中には妄想と現実の混ざった彼の姿が渦巻いた。既に現実は妄想に支配されている。自分の部屋だってろくに見ちゃいないのだ。脱ぎ散らかした服、あ、片づけなきゃ、でもどうやって片づけるんだろうか。そもそも片づける必要なん、あ、ゴミ箱を取り換えカーテンを開けてお腹が減って、ばあちゃんは今日、俺が洗濯物を、明日は、一昨日?今、あさって、走りたい、釣りを、釣り、夏樹が俺に、あぁもう、本当に何もわからない。

 半端に伸ばした足が何回も引きつって、残念なことにあぁ、もう、限界が近いのです。
 泣きそうになりながら頭の中の夏樹を一つずつ消して、願望と期待が作り上げた甘くて淫猥で、最低な夏樹に最後に舌を伸ばして、届く手前で消えた姿にいつものように絶望して心臓を掴まれて、そうして声を洩らしながらシーツを握りこむ。


 ピンポーン、と、鳴るはずもない玄関のチャイムの妄想が、うなだれていた頭を持ち上げて、俺は目の前で、さっきっからずうっと大げさに身をしならせて笑っている、そんな最低な男に、

「なめさせて、」

と懇願した。