冴えない男とシェパード
(だがしかし、不幸かな。彼の犬は彼そっくりである)


 それは偶然であった。偶然アキラの家に鍵がかかっていなくて、偶然家主もいず、結果偶然不法侵入して、それで偶然アキラの部屋に入った俺は、偶然好みの男を発見した。正確には好みの男が写った写真集を見つけた。
 本棚から少しだけ飛び出した部分を、隣の雑誌を巻き込まないように気をつけて引っ張る。つつ、と表紙を飾る男のラインを、指紋を押し付けるようにして触った。アキラだ。
「なにこれ、アキラこんなことしてたのかよ。へ、え。」
 半開きになった口の中に、知らずつばがたまっていたようで、唇の端にひっかかったそれを慌てて飲み込んだ。ごくん、と音が響く。喉仏に触ると、わずかに振動しているような気がした。
「か、鍵閉めてかない方が悪いだろ。」
 なんてわけのわからない言い訳であろうか。でもかえってそれが心地よかったのだと思う。
 眉をひそめて、そろそろと手を動かした。


 アキラの部屋は簡素で整然としている。この部屋は、家主がいるときといないときとでは全然違うのだ。
 家具は一通りある。使われずにほこりをかぶっているものはない。適度に掃除がされており、たまに洗濯物が畳み途中で放置されているものを除けば、男一人の家にしては大変片付いている。
 窓際にはサボテンなのかはたまた違う植物なのかよくわからない植物が鉢植えで小さく佇んでいる。遮光カーテンでないのはこの際目をつぶろう。あれは高いからな、と、アキラの声が聞こえた気がした。火をつけたらきれいに燃え広がるんだろうな、と、些か物騒なことを思った。
 アキラの家は、だから、生活している感はあるんだ。だけれども生活臭がしない。ここで人が生きていることはイメージできても、ここでアキラが起きて、食べて、風呂に入って、まどろみながらテレビをつけて、たまにマスターベーションをするかもしれない、そうして一日を終えてまたベッドに横になる(あぁ、ほら、ちゃんと布団かけろよ。)、そんな普遍的な生活を送っている様子はあまりイメージできなかった。

(っていうか、あいつ、オナニーのとき声出すのかな)

 出すもの出して、それで一人でさめた顔して下着洗うアキラ、か。なんだよ、想像すると笑えるな。
 足をくつろがせてベッドに座った。もうやることなんてただ一つしかなかった。
 家主はきっと、しばらく帰ってこないだろう。そういうものだ。奇跡とか、運命とか、そんなものは信じたことはないし、こんな不埒な退屈な行為にわざわざそんなものを持ち出すほど無粋でもない。でもまぁ、そういうものだ。
 徐々に上がってきた熱を頬にうっすらと感じながら、頭の冷静な部分が、狂っていると嘲笑した。
「ははっ…。俺今、アキラの写真集オカズに抜いてんだもんなぁ。」
 そりゃあ、狂ってないくてどうする。どうせ人間なんてどっかしらが救えない程に狂っていて、途方もなく故障した生き物なんだから。
 アキラの身体を目で素早く追った。その、どうせろくでもないことしか考えていないような目を、自分の瞳の中に懸命に押し込んだ。
 派手な色合いをした、複雑で面倒な布きれの中に隠れているであろう身体を想像する。適度に筋肉がついていて、堅くて、それでもしなやかで、骨盤ががっしりと定まったそんな身体だ。身体の表面はいやな冷たさを備えているのに、その大きな手だけは熱い。その手が自分の頬に添えられて、そのまま親指で喉仏を落とされる夢を見た。
「ぅ、あっ……はぁ、…っははっ。っん……。」
 半端に放りだした足が、痙攣して雑誌に触れた。性器を扱いながら、かかとで写真のアキラの肺あたりを押しつぶした。それでまた、興奮して、ひひっといやらしい笑い声をあげて喘いだ。


 あれは魔が差しただけだ。
 そう、魔が差しただけ。あの行為はあの日一日だけのものであり、もう二度と、あんなとこであんな風に、痴態を晒すことはないと思っていた。
 確かに最中は楽しかった。気持ちよかったし、なにやら不穏な征服欲とやらも満たされた。気にくわない人間を最低の方法で汚す喜びと、自分への裏切りが、非常に肌に心地よかった。
 ベッドのシーツの皺を、バレない程度に、もとより少しだけ綺麗に直して帰るのも、嘘で塗り固められたいじらしさが現れているようで、また格別であった。
 汚れた手をティッシュでぬぐっても、まだ見えない汚れはこびりついていると信じている。そうでなくてはおもしろくない。わざと丹念にぬぐった指先で、本棚に雑誌を押し込むときは高揚感が隠せなかった。
 綺麗な表紙。折り目の一つもついていない中身。
 そんな本に、全ページに至って、自分の指紋と、精液の残滓が残っていると考えただけで、あぁ、あと一回くらい余裕で抜けそうだ、なんて、若いって怖いな、なんて、くだらないことを考えては笑った。
 気付くとそんな可愛くない快感が病みつきになってしまったのか、いくつもの偶然を求めては断続的に不法侵入を繰り返した。
 その度に少しずつ備品の位置を変えた。気付いてほしかったわけではない。ただ、アキラが何事もなく過ごす日常に、一つの波紋を投じたかっただけだ。まぁ気付かれたとして、さしものアキラも、8歳も年下の子供にオカズにされているとは思わないだろう。それが発覚したときの彼の顔を見るのもおもしろそうではあるが。
 そうやって段々やることも大胆になってきて、ついには己の痴態を己で撮影するまでに至った。もはやここまできては目的も何もなかった。馬鹿だ、とか淫乱だとか、雌犬とか?なんて罵られるんだろうな。でも確かに、今の自分の様相を見ればそう罵らざるを得ないだろう。もう罵られても良い、いっそ罵ってくれよ、と、食いつぶされた脳の片隅で考えた。

 ある日の夕方、金曜日。
「…んっで、ねーんだよ。」
 定位置にあるあの雑誌が見当たらなかった。あまりにも変わらない部屋の様子に、今日はもう、持ち帰ってしまおうかと思っていたというのに。
 不機嫌な顔を隠そうともせず、下着の中から性器を取りだした。すっかり慣れたものである。
 枕を近くにひっぱり、片足で抑えつけながら手を動かした。よくない考えが頭をよぎり、実行に移したい気持ちと、必死に止める気持ちがせめぎあって、ぞくぞくとした快感が背中を駆け上がった。
「シーツ、気持ち良かったんだよなぁ…。」
 一人恍惚とした表情でうっそりと枕を見降ろした。手の動きを止めて、抑え込んでいた枕を緩慢に引き寄せる。
 手の甲で、二、三回表面をたたき、ぽすぽすとした間抜けな音を聞きながら額にじわりとした汗を感じた。
「枕とか、気狂いかよ、俺。」
 興奮のせいか奥歯がカタカタとなり、前髪が目に入った。一度ぎゅっと目を閉じて、大きく息を吐いて、それで喉の奥で笑った。目をつぶったまま右手で半勃ちになった陰茎に触れた。
 漏れる笑い声をとめて、腹の中で荒れる得たいの知れない感情を抑えようともう一方の手を口元にやれば、わずかに汗の味がして、それにまた興奮して思い切り噛みついた。
 次に目を開けたらきっと戻れねえな、とうっすら残った理性が遠くから言ってきた。知らね、もう良いじゃん。気持ち良いんだから。
 そう言って目を開けて、口の中で唾液と舌を絡ませて、「夏樹お前、そんなに俺のこと好きだったんだな。」という心底軽蔑した声を聞いて、
「知ってたくせに。」
 と、一声高く鳴いてやったのさ。