まるで地球を一周したかのようだった。 もはや時計を見るのも億劫で、夏樹が確認しようとした時計を倒して文字盤を伏せた。まだ外は暗かったから、少なくとも朝ではないのだろう。三時か、四時 か。一瞬だけ考えたけれども、考えても答えの出ないものには今はとにかくふたをして、また考えなくてはならないときに考えようと、そう思った。 枕を腕の下敷きにして、ベッドの向きなんて気にせずに仰向けになる。夏樹のみぞおちに直撃したようで、なんとも情けない声が聞こえた。 布団はもう申し訳程度にベッドに乗っかっているだけで、それも夏樹の左足が押さえているだけであった。ぐちゃぐちゃになったシーツにタオルケット。明日は晴れると良い。 少ししてくると汗が冷たくなって寒さに身ぶるいをした。それでも散乱しているであろう洋服たちをかき集めて、この暗い中、これは誰のでどちらが後ろで、 と頭を身体をひねることはご免こうむりたかった。だから必然的に二人で擦りよってそしてまた互いの汗の不快感で突き飛ばしあった。 「ユキ、眠れそうか。」 「うーん…。駄目っぽい。」 「そうか。」 そう言うと夏樹は反動をつけてベッドから身体を起こした。しかしその勢いも長くは持たなかったようで、ずるずると腰から床に滑り落ちて、手近にある服を腹ばいになってかき集めた。これユキのじゃねーか、という声とともにズボンが向こうへ放り投げられる。どうせならこちらに投げてくれればいいものを、夏樹はたまに気が利かない。 夏樹はこのまま準備をするのだろう。朝早くに帰って、そして本当にさようならだ。 「夏樹、ずっと江の島にいなよ。」 一つだけ呟いた言葉が暗闇に溶けて消えた。 チッ、チッと正確に時を刻む時計の音がやけに響く。もう夜も遅いから、あまり大きな声を出してはいけないことはわかっているけれども、無性に叫びたくなった。 「俺さ、やりたいことがあるんだ。」 「うん。」 「それは江の島じゃできなくて。」 「うん。」 「どうしても今やりたくて。」 「うん。」 「だから俺は明日、っていうか今日、ここを出ていく。ユキのそばから離れる。ユキを置いてアメリカに行く。」 「うん。」 夏樹はもう、夢を見つけた。夢のためにどうするかも、きちんと決めた。それは誰よりも近くで、誰よりも多くの時間を過ごした自分が一番にわかっていた。仮進路調査の紙に大きく文字を書きなぐって職員室に呼び出され、やけに晴れ晴れとした顔で戻ってきたことを思い出した。 俺はどうするんだろう。何かやりたいことはあるだろうか。 将来のために今できることをしなさい、と言われても、どうなるのかまるでわからないものに向かって真剣になることはできなかった。学校の先生は言う、親たちは言う。誰誰がどこそこの会社に就職して、誰誰は学術界で成功をして、この間誰誰が新聞にのっていただとか、あの有名な誰それは自分の旧い友人だとか。 自分ではやりたいことがあっても、それが周囲の期待にそぐわないものであればやっぱり価値のないものと判断されてしまう。生きにくい世の中。 一体何のために生きているのだろうか。人は言うだろう、お前のためだと。それでもきっと、自分で選んだ道なんて一つもなくて、環境とか、他人の言葉とかが無意識に働いて、ずっと先の未来までレールは敷かれている。 夏樹でさえ、それは仕組まれた運命なのだろう。それでもきらきらと輝いている彼を見て、用は気持ち次第なのかも知れないと、永遠と考え込んでいる自分が馬鹿らしく思えてきた。夏樹より馬鹿になってしまうとは、やれやれである。呆れた顔で首を振ると、夏樹が何もわかっていないようなきょとんとした顔で見つめ返してきたので、意趣返しとばかりに言ってやった。 「夏樹さぁ、勉強しなよ。向こうで生きてけないからな。」 「うるせーなーもう良いよ英語は。」 「英語じゃなかったらやるの?」 「まぁたそうやって人の揚げ足取る…。まったく俺の可愛いユキは。」 「どこにいっちゃったんだって?ここだよよく見ろって。」 茶化して返せばまぶたの上にキスをされた。額に、鼻梁に、頬に、唇に順番にキスをされた。 目を開けて見れば、目の前に夏樹の顔があって、近づいてわざと眼鏡にぶつかった。冷たいとも温かいとも言えないフレームの温度。硬い質感。眼鏡がないと全然見えないと夏樹は言っていたけれど、彼の世界は一体どのように見えているのだろうか。少し気になった。 すっと腰を引いて、かしこまって正座をする。夏樹もくずしていた足を正して座り、まだ開けっぱなしの鞄を身体の前に置いた。 「俺、信じることにした。」 ぐちゃぐちゃなまま鞄につっこんでファスナーを引く。とてもA型とは思えないずぼらな動作に、逆にこういうところがA型なのかな、と思案する。A型は俺と同じように臆病で、堅物だと聞くけれど、一度決めるとおよそ想像もつかないような驚くべきことをしでかす。そしてそう、執念深い。夏樹のことはいまいち信じられないけど、A型の執念深さは信じようかな、と付け加えて言えば、不細工な顔をされた。 一通り準備を終えた夏樹が、再度ベッドに乗っかってくる。荷物を無造作に床に置いて、膝歩きでマットの上を進んだ。 この部屋で唯一、一週間と六日の間、一度も閉まることのなかったカーテン。 腕を伸ばし、自分がどうやっても引くことのできなかったカーテンを、夏樹はいとも簡単な動作で閉めた。 「カーテンが、閉まったから。」 真っ暗な中、後ろに声を落としながら夏樹がベッドから降りた。 「夜になったんだよ。」 荷物を肩にかけて、少し跳んでバランスを調節した。 「おやすみ、ユキ。」 振りかえらないでドアノブに手をかけて、キィィ、と、きしむ音を最小限に抑えて彼は言った。 「また明日。」 愛してるよ。 |