It's a beautiful world 「室長。おれ、ガンになりました。」 参りました、と口ではそう言うものの、実際大して参っているようには見えなかった。 数日前までは何事もなく勤務に明け暮れていた伏見猿比古が突然このようなことを言ったことに心当たりはまるでなかった。 自分が任せた書類を携えてデスク一枚隔てた距離で形式ばかりの礼をする。そしておもむろに書類の束をばらまいては口を開いた。 署名押印の揃った紙面。きちんと順番通りに並んでいたであろうそれらがすべてばらばらに崩れていくのを一瞥したほかは、特段リアクションを見せなかった。 組んだ指をまた組み替えてそれで?と続きを促す。ときたまこの男は癇癪を起こすのだ。それも、ひどくわかりにくい癇癪を。 「ガンになりました。」 相変わらず同じことしか繰り返さない伏見にどうしたものかと記憶の引き出しを引っ張りだす。この前は二カ月前だったか。あのときは確か日が落ちるまでずっと泣きじゃくっていたのだったか。 「病院には行きましたか?」 今日はあの優秀な女性隊員もいない。だだっぴろい部屋の中は静かで心地よかった。 「いいえ、でもガンです。」 かたくなにガンだと言い張る子供。昨日は何のテレビを見たのだろうか。いや、この男の部屋には画面が映るテレビなどなかっただろう。 厄介な病気にかかったものだな、と思って何も言わずに見ていると、その顔が少し興奮していることに気付いた。 「それは治らないのですか?」 今は大事な時期なので、君に欠けてもらっては困ります。これは本当のことであった。例え終局的に切り捨てる駒であったとしても、彼が最後まで喰らいついて生き残る者であったとしても、今は大事な兵に欠けて欲しくはなかった。 自分はまだこの男のことを完璧に把握しているとは言い難い。完璧どころか欠片だって掴んでいないに違いない。大人になった宗像礼司に思春期の子供のことはわからない。もう少し若かったらここで舌うちの一つでもするのかも知れないが、生憎そんな気分でもなかった。 「治りませんよ。」 治りません。彼が指した心臓の上には確かに膿が見えた。なるほどそれでは治りません。でも、それはもうずっと君の中に巣食っていた病気ですね。 唇がつり上がって、歯が見えた。綺麗に並んだ歯だ。笑いたい衝動を無理やりに押さえて苦しそうな表情を作っているのがわかった。 それなのに眼鏡の奥でどうすれば良いですか、俺はどうすれば良いですかと幼ない子のように問うものだから、駆け込む場所が違いますよと指摘してやることも忘れて、自分こそが救世主であるかのように勘違いをするのだ。 「どうしたら治りますか?」 ずっと握られていた隊服が皺を作っている。皺がよるものではないだろうに。余程無理やりかき集めたのだろう。病原菌をばらまかないように、人目に触れないように、独占するために。 書類はまた書けば良い。頭を下げるのは自分の役目ではない。 速やかに業務を遂行するために、まずはばらまかれた書類の上に身を乗り出した。 もしも世界中の悪が滅びたら、治るかも知れません。 |