※対エルフ戦前
※アルバさんだって弱気になる



決戦前夜



 いつかボクがシオンからもらった宝物を見て、トイフェルさんは言ったのだ。
「それは、ちょっとの衝撃で壊れちゃうものです。だから気をつけてくださいね。」
 ボクは手のひらをその宝物にそえる。とくん、とくんと小さな音で波打っていた。


 たとえばこの世界が、男性しか住めない世界だったら。たとえばこの世界には身長制限があって、ここからここまで、と物差しを持った人に追い返されたら。たとえばこの世界では誰もが違う言語を話していて、意思疎通がはかれなかったら。たとえば戦争がなく、みんなが平和に暮らす世界だったら。そうしたらどんな人生を送っていたのだろうか。最近ボクの頭の中では「たとえば」と「もし」が交差して、手を取り合って、ボクの代わりに跳ねまわる。

 住み慣れてきた牢屋からふと外に出てみれば、まだ空は高かった。外に出てちょっとは感動するものかと思っていたのに、自分にはあまり関係がなかったのかも知れない。内でも外でもボクらは友人に恵まれていたし、そもそも最初から誰だって誰かのために生きていたわけではなく、ほかならぬ自分の望みのために生きていた気がする。
 変わったことと言えば、もう守ってもらえなくなっちゃった、という点だろうか。牢に貼られたお札はボクを阻害すると同時に守ってくれていた。頑丈そうでいて、実は何の意味も持たない鉄格子だってそう。ここから出たらみんなに迷惑がかかるから、出てはいけない。だからボクは出られなかった。出なくて良かったのだ。
 外には怖いものがたくさんある。自分のテリトリーなんてなくって、常にボクは自分で何かを考えて行動しなければならない。勝手知ったる空間を捨てて、ボクは知らない場所で、何を考えているのかわからない他人と付き合っていかなければならない。旅に出ると決めた瞬間に、少しでもこの意味について考えていたら、ボクはもう少しまともな生活を送れていたのかなぁと苦笑いをした。


「そろそろ行きますか。」
 ただ寝ているだけじゃ、前と変わりませんからね。天井を見つめながら言ったシオンに、違うよと言いたくなる。前はボク一人でずっと眠っていられたけれど、今はボクを揺さぶり起こすお前がいるじゃないか。
「怖いなぁ。流石に。」
 夜の空気が服の隙間から入りこんでくる。ボクは両手で目を覆いながら、ぼそぼそと往生際悪く言いわけをする。
「あのときは無我夢中だったから何も考えていなかったんだ。でも、一度立ち止まってしまうと本当に怖い。今度こそ死んでしまうかも知れない。ボクも、ボクの友達も、関係ない人も死んじゃうかも知れないだろ。ボクの魔法は本当は不完全で、いざというときにまた暴走してしまうかも知れないし、何か取り返しのつかないことが起きてしまうかも知れない。」
 シオンは何も言わない。ただ時計の針の音だけが響いて、空気が薄くなっていくような気がした。息を吸い込むと涙が出てしまいそうで、変なところで呼吸を止めて、思いを破裂させるように口を動かす。
「逃げるなら、今、かな。」
「…この先はもう戻れませんからね。」
 目をつぶって耳を塞げば夢を見られる。どうしてボクじゃないと駄目なのか、何故また頑張らなければならないのか。頭が良くて、強い大人たちが上手いことやってくれて、ボクはのんびりと楽しいことだけをしていたい。枕を抱き締めて浅く息をつくと、吐息でかすかに手がしめった。目の奥が張っている。流してしまえば楽な涙は、ボクに残った勇者の部分が背中で優しく押さえこんでいる。
「もう子供じゃないんです。誰かが察して俺たちの望む通りの未来を作ってくれるわけじゃない。声が小さくて聞こえなかったときに、「今なんて言ったの?」って聞き返してくれる人はいないんですよ。俺たちは、俺たちの望みをはっきりと伝えて、それを成し遂げなくちゃならないんじゃないですか。」
 シオンはきっと、ボクが逃げても怒らない。怒らずにちょっと悲しそうな目をして、じゃあ行ってきますねと静かに扉を開けるのだ。そうすれば確かにボクは一人だけ安全な場所にいることができて、心配という名の身勝手な応援だけしていれば良い。
「あーもう、やだなぁ。やだやだ。怖すぎる。」
「そう言いながら準備をしている人は誰ですか。」
「あいつ意外とコロッと仲間になってくれたりしないかなぁ。」
「あの日焼け野郎が?どうやって。」
「うーん、お色気?」
「ほんっと、ボケのセンスないですね。」
 ボクは、戦うのが怖い。死んでしまうかも知れないことが怖い。何があるかわからない未来が怖くて、絶対のない世界が怖い。でも実は同じくらい本当は孤独が怖くて、ボクの知らないうちに友達に何かがあるのが怖くて、あとそれから、ヒーローになれずにうずくまっているだけの自分も怖い。何もかもが怖くて、指先は冷たくなっていって、でもきっと同じ状態であろうシオンの手を握ることもできなくて、あぁ本当にボクは臆病者だ。
「シオン。」
「はい?」
「壊れてくれるなよ。」
 そう言うと彼は珍しく心からの笑顔を見せて言う。
「壊れるから、また強くなれる。」
 そうだろ、アルバ。
 久々にあわせた手のひらは冷え切っていて、それでも厚く、硬くなっていた。