わたしのはなし Mine. それは彼がいなくなる約二週間前の話である。 二週間というのは、満足するには短すぎ、諦めるには長すぎる期間だと、青年は思った。新しい記憶ができては、そのたびに自らの手で消していった。新しい記憶を作るのを止めることは、できなかった。 彼らは俗に言う恋人であった。それも同性同士の恋人であった。青年Bは神奈川県の外れにある、江の島に住んでいた。そこへ青年Aがやってきて、どういうわけか世界を救い、そしてまたどういうわけか恋人同士になった。 自覚したのはずっと前だったと言う。踏み切ったのは青年Bであった。そう、ずっと江の島から離れたことのない、離れられなかった青年。彼は些か我慢が足りなかったように思える。今ならばそう言える。だが当時はうかれていたのだろう、後先考えずに崖から飛び降りた。 飛び降りた先は幸せな場所であった。幸せしかなかった。何もかもが優しく暖かく感じられた。脳は溶け、頭を悩ませるような難儀なことは、もう何一つ考えられなかった。白痴であった。愚鈍であった。怠惰であった。 堕落はゆっくりと進んだ。彼らはキスもしなかった。もちろんセックスなんて到底できたものではなかった。特別な話をしたわけでもなかった。外では手も繋がなかった。一つだけ違うのは、隣が温かくなったことくらいであった。 それで良かった。青年Aと青年Bは非常に清らかで、ほほえましい付き合いをしていた。朝は待ち合わせをして、必ず一緒に登校した。教室に着けば、それぞれ がクラスメイトにおはよう、と言い、そして始業のチャイムが鳴るまではずっと、四人がいたときのように青年Aの机で話しこんだ。 クラスメイトたちはあたたかく見守ってくれた。もともと、二人というより四人という色が強かったのだろう。以前よりも打ち解けたクラスの雰囲気が嬉しかった。 二週間前。二週間前に初めて彼らは身体をつなげた。青年Aの部屋で、どちらともなく身体に触れ、涙を流しながらキスをした。 静かな夜であった。階下では青年Aの祖母がソファでうたたねをしていた。毛布をかけ、シーッと、人差し指を唇にあてて、悪戯が成功した子供のようにくすくす 笑いながら、居間を後にした。階段のきしむ音に気をつけながら、ゆっくり、そわそわと階段を上がりきり、かつて少年が使っていた部屋を横目で見て、少し寂しそうな息をついた。 青年Aの部屋の前で、手をつないだ。つないだ手は乾いていて、温かくも冷たくもなかった。部屋に入る前からなんとなくわかっていたのだ。あぁ、今日だなぁ、と。今日はきっと今まで体験したことのない夜になる。そんな気がした。 部屋の中はシン、としていた。足元にひんやりとした空気がまとわりついた。誰に言われたわけでもないのに声をひそめて、二人でゆっくりと部屋の中心に歩いていった。カーテンは閉められていなかった。きっといつもだったらなんでもない月が、その日は妙に優しくぼんやりと浮かんでいるように思えた。 テーブルには芯の入っていないシャープペンシルと便箋が放置されている。今朝出かける前に机の引き出しから、もう長いこと役目を果たしていなかった便箋を引っ張りだして文字を書こうとした。誰に向けるでもない、ただの言葉を綴ろうとしていた。けれども長い間他人に対して逃げてばかりいた自分の内から出る言葉は多くなくて、紙面の半分も埋まらないままぐしゃぐしゃにして捨てた。いつの日か書けるのだろうか。どこに出せば良いのかもわからない、何を伝えれば良いのかもわからない、遠い日に別れた彼らへの手紙。 「あのさ。」 「なに?」 「や、あー…えっと。カーテン。カーテン開けるの面倒くさそうだな、こんだけ窓あると。」 「カーテン?あぁ、そうかな、慣れたよ。もう。」 「そ、か。慣れるよな、普通。」 「うん。」 朝がくるたびに機械的に開けて、夜が来るたびに閉めた。カーテンを閉めて電気を完全に消してしまうと、部屋の中はすっかり暗くなり、やっと一人になれた、と安心した。外の喧騒からシャットダウンすることで自分を守れるような気がしていた。何もいないのに。外には何も怖いものはなかったのに。 「怖くないよ。」 「え?」 「俺、全然怖くない。こんなことするのは初めてだけど、何も怖くない。」 繋いだ左手が、少しだけ強く握られた。その強さのまましばらく緩むことがなく、そこから他人の熱が伝わってきた。 一秒。ニ秒。三秒。そうして七秒たった後、青年Bはゆっくりと手をほどき、青年Aの手首を本当に触れる程度に掴み、ベッドの前へと導く。一日中使われていなかった寝台は冷たい部屋の空気を蓄えていた。 → |