(するんだ。)
(本当に今日、するんだな。)
 ベッドサイドの窓。カーテンを閉めて、誰も気付かなければ良いと思った。
「あのね。」と、いつもと違う口調で青年Bは話しかける。ひかれた左腕を下ろせないまま、「うん。」と答えて、続きを待った。
「俺、 優しくしたいんだ。初めてで、勝手とか何もわからなくて、それで、痛い思いさせちゃうかも知れないけど。や、多分させる、けど…。でも、今、今日じゃない と駄目な気がして。どうしたら良い?俺どうしたら良い?下にはケイトさんもいて、今までこんなこと全然やる雰囲気じゃなくて、俺も実際、やらなくても良い かな、って思ってたんだ。でも、いざ目の前にすると駄目で、俺もうすぐ江の島から出ていかなくちゃいけないんだって思ったらもう、なんもわかんねえよ。別 に気持ち良いことをしたいからじゃないんだ。女みたいに抱きたいわけじゃないんだ。繋がりたいとか、そういうのも正直わかんね。でも、今日しなくちゃいけない気がするんだ。何にもわかんねえ。今までこんなことなかったのに、こんなに、自分のことすらわかんなくなることなんてなかったのに…!」
 せきを切ったように言葉を吐きだす青年Bの身体が小刻みに震えていた。喉を切り刻んで排出される。綺麗に整えられた布団が、少量の水分を吸収した。
 青年Aは、青年Bに対して、気のきいた答えを持ってはいなかった。青年Aは青年Bではなかったから、彼の気持ちすべてを詳細にくみ取り、噛み砕き、消化し、救済することは不可能であった。それでも、抱いていた気持ちは大部分において首肯できうるものであった。そうだね、俺も同じだよ、と、そう言うことはたやすいであろう。しかし彼がそれを望んでいるわけではないことは理解ができた。
 青年Bは、ずっとずっとずっと、 己をコントロールしてきた人間であった。母が死に、幼い妹を守ろうと、彼は彼に関することのほとんどを犠牲にしてきた。そうしていつしか溜まっていった膿に見て見ぬふりをして、父を拒絶することで自我を保っていた。自分の崩壊にも目をつぶってきたのだろう。もしくは時がたつにつれ、本当に制御することが当たり前になり、やがていつしか齟齬を認識することすら億劫になっていったのかも知れない。
 目をかたくつぶって、その痛みで瞼を持ち上げられないでいる青年Bの額にはりついた前髪をそっと上げた。まだ十七歳の子供だった。
 これからすることは、きっと大きな覚悟がいることだ。
 踏み出さなくても生きていけるそんな線を、二人の意志であえて越えようとしているのだ。母さんも、父さんもいない。愛し合うということがどんなことか、本当はまだはっきりとわかっていない。それでも今越えなくてはならないラインがあって、とても足りない力だとしても、二人で乗り越えなくてはいけない。
 青年Aが、青年Bの瞼にキスをする。
「大丈夫だよ。全然大丈夫じゃないけど、でももう俺は、大丈夫だよ。」
 ここで目を閉じたら、どうやらもう一生開けられないらしい。本能がそう告げた。きついなぁ、つらいよ。心臓が泣いているのは知っていたけれど、目を瞑ることは許されなかった。
「いっぱい、優しくして。」

 初めてのセックスは、何も良いことなんてなかった。ストレッチもろくにしたことがない身体を無理やりに折り曲げては、気持ちよさのかけらも感じずにただ痛みだけを享受した。
 それでも痛いと悲鳴を上げては、きっとさっと顔を青くして自分を責めるのだと思うと、絶対に声は出せなかった。歯を食いしばって、シーツを掴む手に力がこもった。汗が背中を伝って、体温を奪っていった。
 青年Bの方も、きっとつらかったに違いない。前後もわからず動かす身体も、その心も、とっくに壊れそうであったに違いない。青年Aの我慢にも気付いていた。ただ、それを悟られてはいけなかった。必死で押し殺した悲鳴に気付いてしまうことは青年Aの心を踏みにじる行為もであったのだ。
 少しでも気を紛らわそうとしてたくさんのキスをした。唇を押しあてるだけの拙いものであったけれども、それでも確かに彼の心は満たされた。青年Aの身体を離すまいとしがみつくように捕まえて、腹に、へそにキスをしては何度も鼻をぶつけた。青年Aがおそるおそる右手をのばして、青年Bの髪を引っ張った。
 のけぞった白い首筋に、どうすれば良いのかわからなくなる。想像できない程の負荷をかけているのだろう。滑りが良いとは言えない中に半ば無理やり押し込んで、ぎこちなく跳ねる身体を心配そうに見やった。
「ぃっ…!」
「っ、ごめっ…!痛かったよ、な…。」
「っう…あ、ちが、ううん。良いの、大丈夫、いたくない。」
「でも、お前…。」
「いたくない。」
 ばちり、とあった目がいやに真剣な色を帯びていて、もう逃げることはできなかった。眼鏡に水滴が落ちて、視界がぼやけた。もうやめてしまいたい、こんなつらいことはしたくなかった。優しくしたい。甘やかしたい。気持ち良いだけを感じていて欲しかった。好きな人に苦痛を味あわせるくらいなら死んだ方がマシだった。
 青年Aの身体は当然、同性を受け入れるようには作られていなかった。インターネットを駆使して調べても、実際に自分たちが行動に移すとなると話はまったく違った。誰も助けてくれなかった。自分だけが我慢すれば解決するものでもなかった。いくら涙を流しても、二人の間の違いを溶かすことはできなかった。
 ベッドの上にはローションやコンドームが散乱していた。途中でパニックになり、必要以上の量のローションをぶちまけた。震える指に気付かないふりをして開けたコンドームのパッケージには血がついていた。
 失敗したんだ。
 青年Aの腰をさすっていた手がゆっくり離れて、背中にのしかかっていた重みも、同時に去っていった。やめようと言ったわけではない。それでも、もうこれ以上は進めなかった。心が死んでしまうと、青年Bの目が訴えていた。
 性行為は二人に痛みと苦しみをもたらした。好きな人と繋がれるという幸福も、高揚感も与えることはなかった。


 そうしてこの日から、ユキは眠れなくなった。