「死にたくなるよ。」 いつも能天気に飛び跳ねている声のトーンが低くて驚いた。 夜のシーキャンドル、最上階に上がる途中で少年Cが口に出した。四人が四人でいられる最後の日に、彼らは江の島をすみずみまで練り歩き、最後にここに来たのだ。 夜と言っても夏の夜はまだ少し明るく、気温も蒸し暑いままであった。半そでのTシャツをぱたぱたとさせて風を送りながらエレベーターに乗り込む。人のにおいにつられてか、単に光につられてか、三匹の蚊が入りこんだ。 「うわ、なんだこれ、蚊がいっぱいいる。」 「えっ、ちょっと俺刺されるからやなんだけど!」 やだやだ、と言って青年Aは手で追い払う動作をした。それを見て俺はあまり刺されないからな、と青年Dが呑気に笑う。外にいる蚊は殺しにくいよな、と青年Bが言って、そういえばどうしてだろうと思った。 外にいる虫は殺さない。家の中にいる奴らは情け容赦なく抹殺の対象となるのに。テリトリーを認めているのだろうか、でもそれだとしたらとても人間本位な考え方であろう。家は人間の場所だから、侵入者は容赦なく殺す。外では虫にも少しの命を認めてやろうだなんて、傲慢だなぁ、と思うわけだ。 「夏は煩いよな。」 「何が?蚊?」 「うん、色々。」 エレベーターが止まって、すし詰めにされていた人々がこぞって出ていく。出た先にあった景色に「きれい!」という歓声が老若男女問わずあがって、一体何が綺麗なのかと見て見ればなんのことはない、街頭と車のライトの光だった。何が珍しいんだろうな、こんなのどこだって見れるじゃないか、という言葉を飲み込んで隣を見れば、つまらなそうに景色を眺めるアヒルと目があった。 「夜の江の島、ボクだーいすきっ!」 わけのわからない声を上げながら走り回る少年Cに、いつもと同じだろ!と押しこめていた言葉を思わず発すれば、先程真っ先にきれいと言ってエレベーターから走りだした女性たちにじろっと睨まれた。小さく悲鳴をあげて身をすくませれば、呆れた顔をした青年Bが、フォローのつもりか、「まぁ、俺たちはいつも見てるからな。そんなもんだろ。」と自分の頭に手を置いて言った。 「混んでるし、先上登っちゃおうぜ。」 「あぁ。」 いまだ走りまわっていた少年Cを捕まえて急な階段を四人で順番にあがった。この階段を上がるときはいつもひやひやする。急なうえ空気が直接肌に触れ、ここから落ちたらどうなるんだろうという恐怖がいつも頭をかすめる。四人で上るときは本当に狭い。しんがりは青年Dだから、万が一落ちてもなんとなく助かるような気はしているが、自分の後ろに少年Cがいると思うと、予想を上回る奇想天外なことが起きても何もおかしくはない。ついつい前を行く青年Bにもっと早く進んでと声をかけたくなってしまうのも仕方がないことだ。 そんなときに言った。 「死にたくなるよ。」 少年Cの口から出るにしてはあまりにかたく、無機質な言葉であったから、一瞬誰もがその意味をはかりかねた。前に進んでいた足が一瞬止まって、冷たい風が直撃した。 「一番上にのぼって、海を見るとね。死にたくなっちゃうんだ。」 涼しげに笑って、もう一度少年Cは繰り返した。死にたくなるって、そんな馬鹿な、と一秒早く立ち直った青年Bが笑って返したけれど、その言葉は心臓の下あたりに重く残った。 宇宙人でも、知ってるんだな。死ぬって感覚を。にこにこと澄んだ目で笑っている少年Cを見てそう思った。 この瞬間も、そして次にくる瞬間も、一分後にはまとめてごみ箱に入ってしまう。過ぎた時間を保存することはできなくて、だから取りだしてそのままを振り返ることもできない。それが故に時間は貴重なのだと言うけれど、楽しかったこともつらかったこともすべてごちゃ混ぜになって思い出になってしまうくらいなら、思い出など作りたくないと思った。 最上階は夏でも寒いくらいで、波の音が時折聞こえるほかは人も多くなく、静かであった。 人工の光が眩しい方向とは反対の、暗くて果てが見えない海の方を向いた。一回百円の望遠鏡。小さい頃はこれを覗くことが憧れであった。覗いたって見るべき建物も景色も何もわからなかったというのに、ひたすらにお金をせがみ、しょうがないわねぇ、と笑う祖母に顔を輝かせた。低身長の子供のために設置された台に上ってお金を入れる。そのときに一番心が踊っていた気がする。いざ望遠鏡を覗いてもやはり子供には見えるものが多すぎて、時間ぎりぎりまで見ることはなく、早々に台を降りては代わって覗く祖母に痺れを切らしていたことをおぼろげに覚えている。 「あぁ、本当だ。」 きっとここは、見るべきとこじゃないんだろうなぁ。青年Dがぽつりと漏らした言葉に頷くことはせず、ただ向こうに広がる海を眺めた。 このこともいつかは忘れてしまうのだろうか。忘れないようにシャッターを切っても、どうせこの暗さだ、写ることはないだろう。それに仮に写ったとして、それを見たときの自分は今のこの感覚を鮮明に思い出せるのだろうか。答えはいいえ、だろう。どうしてこんな写真を撮ったのだろうかと、少し首をかしげて削除ボタンを押すのだ。そうして言う、「結構整理できたなぁ!」と。 ひとつひとつのできごとは、いつの日か整頓してきれいに並べて飾られるのだろう。でもその裏には、忘れ去られた多くのできごとがある。今この瞬間には意味があることでも、やがて色あせて淘汰されて、二度と浮かびあがってこない深海に沈む。 忘れちゃうなら、死んじゃった方が良いかも知れないなぁと、唇の動きだけでアヒルに言ったけれど、アヒルはうんともすんとも鳴かなかった。 → |