わたしたちのはなし Ours. 宇佐美夏樹が渡米をする、その日から逆算して九日目の夜だったか、真田ユキは自身におこっている現象の名前を知った。「眠れない。」 学校へ行き、釣りをし、帰って風呂に入って夕飯を食べる。そのあとに眠ろうと思って布団にもぐりこみ、確かに一瞬記憶が途切れるような気はするものの、はたと気付くと時計の針は長針がわずかに動いただけで五分もたっていなかった。 眠れなくて困っているわけではなかった。昼間は普通に活動をし、成績だって特に変わりはない。苛々する頻度が増えるわけでも、記憶が断絶することもない。ただとにかく眠れないのであった。 不眠が訪れたのは二週間前のあの日からだったから、どうにか原因をさぐろうとした。しかし特段不満があったわけでも、ショックがあったわけでもなかった。 ユキは一度、夏樹に相談をした。あれはいつだったか。あぁそうだ、四日前の話だ。流石に宇佐美夏樹が原因の一端を担っていることは明らかであったから、彼に相談をしたのだ。「三日間。残りの三日間を俺にちょうだい。」と。あのとき自分が、ことさらに理由を言わなかったのも悪かったのだろう、出発の準備で忙しかった夏樹に「ごめん、ちょっとあとで聞くな、ユキ。悪い。」と、すげなく断られたのを覚えている。 そのときもそこまでショックは受けていなかったような気がする。あぁそうだよな、忙しいよな、と案外あっさりと引きさがったのではなかっただろうか。それでもこのとき、ユキははっきりと自分の症状について諦めた。眠れないものはもうどうすることもできない、その上原因も不明であるならばなす術もないのだろう。今は生活に支障も出ていない。夏樹も暇がなさそうだ、大人しくしておけばそのうち自然に治るのであろう。 そんな風にユキが周囲に訴えなかったことも手伝い、彼の症状は外からはまったく想像できるものではなかった。 だから夏樹が見逃してしまったことについてもそこまで非難できることではないだろう。ただ彼がとった選択は、結果的には苦いものとなったかも知れない。 「ユキ、お前さ、寝てないだろ。」 「…寝てるよ。」 「今日お前んち泊まるから。三日は駄目だったけど、一日、残りの一日は俺がもらうから。」 諦めたとは言っても、どこかで気付いて欲しい気持ちはあったのだ。紙パックのジュースを持つ手が少し震え、押し出された中身が気管に入ってむせそうになった。あーあ、と、ユキは思う。気付かないでいてくれた方が、楽だったのにな。 夏樹の口調は断定的であったから、嫌だ、帰ってくれと言っても帰らないことは容易に想像ができた。そもそも帰ってほしいと本気で思っていない自分の口から出た言葉に、拘束力など皆無であった。夏樹が言ったから、仕方ない。決して自分のせいじゃないんだと、誰に対するでもない言いわけを頭の中で反芻しながら、味のしないサンドイッチを咀嚼した。 眠れない日が一週間と五日たって、こうして一人の人間に気付かれた。彼は出発の前日にユキの家に泊まりに来た。それでも事態は何も変わらない。夏樹に気付かれたところで、やはり一向に眠気は降りてこない。学校から帰って(この日夏樹は終始不機嫌であった。)、着替えを取ってくるという夏樹を家の前で待ち、それから相変わらず人通りの多い道を抜けて、そうして自宅へと到着した。 今日は釣りには行かない、という夏樹の言葉に対し、そう、と簡単な相槌だけを返した。釣りも運動や音楽のように一日やらないだけで腕がなまるのだろうか。一種のスポーツとも言われるし、そうなのかな。最近は毎日毎日海に向かっていたからわからない。もし明日すっかり忘れてしまったらどうしようか、とそこまで考えてカレンダーを見、どうせ明日はろくに釣れないだろうと思った。 「先、二階上がってて。お茶持ってくから。」 「茶なんて良いよ。」 「違う。俺が準備しないと、ばあちゃんが帰ってきたとき持ってきちゃうから。」 「あー…。」 「うん。」 お願い致します、と両手を胸の前で合わせ、慇懃にお辞儀をしてから夏樹は二階へあがっていった。よろしく承った、と投げやりに返事をして乱雑に食器棚を開けた。 → |