「カーテン、閉めないのか。」 「んー…。面倒くさくなっちゃって。」 「そ、か。」 二階に上がって、しばらく二人で何もせずに過ごしていた。パラパラと雑誌をめくったり、用もないのに鞄を開け閉めしては、中のものを床に散らかした。 この数カ月で自分はずいぶん大胆になったし、勇敢にもなっただろう。そして同時に、今までと違う臆病さも手に入れた。真田ユキを構成してきた要素に新しいものが加わって、確かに以前の自分から想像もできないような発言をしたり、行動をするようになった。それでも過去がいなくなったわけではなくて、「怖さ」と無縁になったわけでもなかった。 見えるものが怖かった。いつも誰かに笑われているような気がしていた。げらげらと品のない哄笑が頭の中を占めて、自分のことを壊していくような気がしていた。今はどうだろう。今だって思うときがある。本当は全部うそで、見えるものだけじゃなくて、自分に見えていないものまでも自分を陥れようと罠を張っているのではないだろうか。窓の向こうでは、夜になるとそういうこわいものたちが隙を窺っていて、自分が気を抜いた瞬間に一斉に襲いかかってくるのではないだろうか。 今日話していた友達が、明日にはこわいものになっているかも知れない。離れていくかも知れない。今までは、やさしいものがいなかったからそんなことは考えもしなかった。でも、今はその変化が怖い。もしかしたら、例えば、ひょっとすると、仮定の話が脳内を駆け巡っては心臓の動きを速めた。 それならば夜に溶けてしまおう。幼稚な考えが脳裏をかすめて、寂しく笑いながらやがてカーテンを閉めることをやめた。朝の光が眩しく目に突き刺さったって、気にしなくて良いのだ。どうせ俺は眠れない。 「あのさ、ユキ、俺。」 「ハルとアキラ今頃何してるかなー。ハルまた騒ぎを起こしてないと良いけど、どうだろうね。」 「俺聞きたいことあるんだけど。お前さ、何で。」 「アキラはタピオカの結婚式どうするんだろうね。俺は認めんぞ!とか言いそうだよね。」 「おい、話聞けって!」 「聞いてるだろ。」 「逃げてるだろユキ。」 「…夏樹。ねぇいやだよ。俺難しい話はしたくないんだ。頭が痛くなる。」 「頭が痛くなるってお前…。」 「いいよもう、ね、シよ?セックスしよう、夏樹。」 わざとらしく舌を出して舐めあげるふりをすれば、顔を歪ませた。もう勝手にしろとばかりに苛立たしく舌うちをされ、乱暴に押し倒された。 「ざけんなよ。」 「何が?あぁ、確かに舐めるのはしたことないから、下手かもね。」 「ちがっ、お前!わかってんだろ!」 「やり方?それはね。うん、ビデオで学びました。」 「…っ。」 ビデオなんて見たことなかった。でも世間一般で言う男子高校生として、そういうものに興味を持ってもおかしくないことは知っていた。夏樹もまさか、自分が本気で言ったとは思っていないだろう。この際どちらでも良いような気もするが。 泣きそうになりながら、引きちぎるようにして衣服をはがされた。そして自分は、夏樹の所作が荒くなれば荒くなるほどさめていった。 だって仕方がないじゃないか、とユキは一人ごちる。仕方がないじゃないか。 本当は今日、夏樹に来て欲しくはなかった。少しずつ離れていって、そして運命の日までには完全に「特別な人」から「特別だった人」へ切り替えようとしてい たのに。特別な人をつくる痛みは果てしないものであったから、それはもう十分だ。ハルとアキラがいなくなって、痛感した。特別な人との別れは死んでしまうほどつらい。 夏樹までいなくなっちゃったら、世界と自分を繋ぐ糸は、今度こそ完全に切れてしまう気がした。朝起きて、自分の知らない世界だったら、それはどんなに絶望的なことだろう。 萎えた性器を、夏樹が痛みが走るほどの強さで扱った。気持ち良いなんて感情はともなわなくったって、つぼを心得た指先で触られれば勃つ。同じ男だ、どこを触れば良いかくらいはわかる。例え他人であったとしても。 ローションを使っても失敗をした。きっと何をしてもまた失敗するのだろう。そう思ってもはや自棄になりながら事を進めた。後ろをほぐそうにも、どちらも力が入ってしまっていて思うようにいかない。苛立ちに任せて指をねじ込もうとすると、くぐもった声が聞こえた。 痛みは我慢をすればすぎるものであったから、ユキはひたすらに声を押し殺した。そうして夏樹が諦めて、見捨てて帰ってくれることを願った。痛いことはかえって良かった。それを眠れない理由にできるから。夏樹が怒ってお前なんか知らないと、そう言って去ってくれることを望んでいた。 「なのに、なんで夏樹が泣くんだよ。」 「はぁ?知らねーよ、何も言わないユキのことなんか知らないし、俺はそんなことで泣かねーよ。」 「泣いてるじゃん。…ほら、泣いてるじゃん。」 「泣いてねーよ。」 背中に生ぬるい水滴があたった。夏樹でも涙って出るんだな、明日も泣くのだろうか、とふとそんなことを考えた。そういえば久しく泣いていなかった気がする。 涙は排泄物である。細菌でも入ったのか、夏樹の涙を背中に感じるうちに目がひりひりとしてきて、視界がぼんやりとした。 「夏樹はさ。」 「何。」 「何で今日来たの。」 「来ちゃ悪いかよ。」 「悪かったよ。」 すごすごとベッドに腰掛ける。服を脱ぎ散らかしたまま、隠すところも隠さず、ぽつぽつと言葉を交わしている様子はかなり間抜けであろうと、自分たちでもわかっていた。 時計は夜の十二時を指していた。先程一階で微かに物音がしたような気がしたが、そう言えばばあちゃんはいつ帰ってきたのだろうか。彼女が二階に上がってこなかったことに感謝をした。 「もう友達に戻ろう。」 言うはずのなかった言葉がぽろりと落ちた。言ってしまったら、責められるのではないかと思った。そして同時にどこかにいる神様とやらに、二度と帰ってこられない場所に突き落とされるのであろうと思った。何もかもを捨てたかった。そして何からも捨てられたくなかった。ゆるやかな終末が良かったから、このまま恋人という座に居続けてつらい思いをすることはいやだった。そして決定的な断絶もいやだった。 「本当は俺、夏樹のことそこまで好きじゃないんだ。言われたときも興味本位だったんだ、男と付き合うのってどういうことなのかちゃんとわかってなかったんだ。男同士じゃ何も生まれないんだよ、夏樹もそれはわかったでしょ。俺たちがセックスをしようと思ったって、うまくはいかないんだ。だからきっと、気持ちだってすぐに離れていくでしょ。ね、俺はそんなに好きじゃなかったんだよ。夏樹、ちゃんと考えて。そうでしょ、だって本当は、俺のことを抱かなくったって、抱かなくったって大丈夫なんでしょう。だからもうやめようよ。こんなの何も楽しくない、綺麗じゃない、嬉しくない、気持ちよくない。早くアメリカでもどこでも行けよ。江の島からいなくなれよ。」 一度流れた涙はもう止まらなかった。次から次へとあふれる言葉に呼吸が追いつかなくなる。頭の中が飽和して、途中から何を言っているのか自分でもわからなくなった。 夏樹はその間ずっと前の暗闇を見つめて、唇を噛んでいた。窓から射す夜の光が部屋の中に落ちていた。眼鏡の奥の目が少し伏せられていて、こんなときでも夏樹はやっぱりかっこいいんだな、と切なさに胸が締め付けられた。 → |